「黒ワインのWINE手帖」~人とワインのものがたり~

記憶の欠片を注ぐ

記憶の欠片を注ぐ

黒ワインと申します。
銀座やみなとみらいなどの、数多くのお客様に愛されたレストランでソムリエとして働いた経験から、ワインにまつわる人間模様をこれまで書いてきました。

この連載では、知識や格付けだけでは語れない、一杯のグラスが彩った人生の機微を綴っていきます。渋谷の喧騒の奥に佇む「THE WINE」のように、日常から一歩離れた、静かで豊かなひとときをお届けできれば幸いです。

2026.09.03

レストランのフロアに立っていると、お客様から「赤と白、どっちが好きですか?」とか、「どんなワインが好みなんですか?」と尋ねられることは少なくありません。プロとしてワインに携わっていると知っているがゆえの、ありがたい質問なのだろうと思います。

けれど、そのたびに僕はちょっと困ってしまいます。きれいごとなどではなく、ワインという名前のついたものは大抵好きですし、「どんな種類のワインが?」と聞かれても「美味しいワインが好きです」なんて、何とも曖昧な答え方をしてしまうからです。

もちろん、それは適当にあしらっているわけではありません。高価なグランヴァンであれ、買いやすい日常のテーブルワインであれ、ワインの本質というのはラベルの知名度や価格だけにあるわけではないからです。むしろ、自分がワインを贈り物としていただく場合、誰かが自分のために選んでくれたというそのプロセスや心遣いを感じられる瞬間こそが、何よりも代えがたいものだと思っているからです。

最近、まさにそういった人の心の温かみを深く実感する出来事がありました。



少し前、親しい知人から「あなたにワインを贈りたいんだけど」と相談されました。いつものように具体的な好みを尋ねられたのですが、例によって僕はまともに答えず、「赤と白と泡なら…」などと通ぶった軽口を叩きつつ、「いや、やっぱり全部好きですね」とお茶を濁しました。他にどんな傾向が好きなのかと突っ込まれても、気の利いた返事はしなかったはずです。

ところが、後日その知人から届いたのはイタリアの「フェッラーリ」というスパークリングワインでした。箱を開けた瞬間、僕はハッとしました。

なぜなら、僕と話す中で、僕がイタリア語を少し話せるというエピソードを彼女は覚えていて、「イタリア語が分かるなら、きっとイタリアの泡が好きなはずだ」と推測して選んでくれたと気づいたからです。さらに驚いたのは、何気ない雑談の中でポロッとこぼした別の趣味や好みのキーワードまでも、彼女は密かにメモしてくれていて、プレゼントとして添えてくれていたことです。

「自分の何気ない話をこんな風に覚えていてくれたんだな」

そう気づいたとき、好きなワインをいただいた嬉しさはもちろんのこと、その背景にある相手の優しさや気遣いが胸に染みて、何とも言えない嬉しい気持ちになりました。人の生活スタイルや、ふとした会話の断片を拾い集め、そこからぴったりの一本を導き出してくれること。それは、形式的なプレゼントという枠を超えた、最高に贅沢な贈り物でした。



こうした体験をするたびに、ふと思い出す風景があります。それは、かつて僕がレストランでサービスマンとして働き、まだ見習いと言っていい頃の話です。

当時の僕には、どうすれば目の前のお客様とより深く心を通わせ、店を気に入っていただけるかという絶え間ない模索がありました。銀座の店舗で働いていたとき、レストラン慣れしたスマートなお客様たちは、さりげなくサービスマンとの会話を楽しみつつ、連れの方への気配りも決して忘れない。その卓越した距離感のセンスに、若く未熟な僕はいつも圧倒されていました。当時、年下の同僚がお客様の心をつかみ、ごひいきをいただく姿を見ては、「自分もあんな風に、お客様の記憶に残る接客がしたい」と強く憧れたものでした。

その後、別のレストランに移ったとき、一人の頼もしい先輩に出会いました。その先輩は、ふと見た印象ではただのニコニコした、ちょっと背の小さなおじさんです。しかしながら、現地イタリアのレストラン勤務経験があり、帰国後も首都圏の有名店でソムリエとして活躍してきた実力者でした。
その方は特殊な技能の持ち主でもありました。どんなに緊張されているテーブルのお客様であっても、気づけば自然に会話の輪に入り込み、笑顔を引き出してしまう圧倒的な技量を持っているのです。

その先輩が優れていたのは、単に料理やワインの知識が豊富なことだけではありません。テーブルの様子を常に隅々まで観察し、今「誰が主役で、誰がまとめ役なのか」「どんな話題に興味を持っているのか」を驚くほど正確に、瞬時につかんでいました。テーブルの会話が途切れたタイミングでさっとそこに入り、一言二言話して盛り上げて帰ってくる。そうして、お客様同士でまた楽しく会話が始まる。そうやって、お客様が心地よく過ごせる空気感を完璧に作り上げていく方でした。

振り返れば、レストランの仕事の構造自体はとてもシンプルです。お客様から注文を聞き、ドリンクや料理をお出しする。基本的にはその繰り返しでしかない。だからこそ、滞在する時間の中で最大限の満足と自然な心地よさを感じてもらうためには、料理を提供するタイミングを計るだけでなく、お客様の心に寄り添う対話が欠かせないと僕は考えました。

先輩の背中を見て学び、僕も実践を重ねました。例えば、近隣の劇場のスケジュールや、お客様の趣味の話題をあらかじめリサーチする。ホール全体を見渡す待機時間の空気の中で、お客様の会話の欠片をそっと拾い集めておく。そして、会話がふっと途切れた瞬間を狙って言葉を交わす。
それを繰り返していくうちに、「この前お話してくれたあれのことですけれど……」と今度はお客様の方から話しかけてくれるようにもなり、多くのお客様に愛されながらサービスの仕事をさせていただいたように思います。そうした細やかな対話の積み重ねの先に、お客様との本当の信頼関係が生まれていくことを僕は学ばせていただきました。



僕がいただいた「フェッラーリ」のワイン。それは、他者が自分に対してしてくれた心遣いに他なりません。その想いは、かつて自分がサービスマンとしてお客様に向けていた姿勢そのものなのだと、今になって強く感じ、より一層嬉しさを実感しています。

ワインショップの棚を眺めれば、世界中の数え切れないほどの国や品種、味わいがあふれています。自分用の特別な一本を選ぶ楽しさももちろん素晴らしいのですが、もしどなたかへの贈り物を選ぶ機会があるならば、少しだけ、これまでの時間を振り返ってみてほしいのです。

その人が普段どんな言葉を口にし、どんなことに心を動かされていたか。それは大げさなリクエストでなくていい。何気ない一言や、普段なら聞き流していただろう趣味の話の断片、その人の生活のほのかな匂いを感じさせる手がかり。そうした「記憶の欠片」を頼りにワインを選んでみるのはいかがでしょうか。

国や品種、赤や白といった色だけではない要素が、ワインには幾重にも編み込まれています。作り手の哲学や願い、作られた場所の風土、そしてもしかしたらそのワインショップにこの一本を置こうと選んだ人の温かなストーリーがあるものです。あなたが誰かの人生を想いながら選んだ一本は、きっとまたその人の日常に鮮やかな彩りを添え、忘れられない思い出の物語へと変わっていくはずです。

皆様とその周りの方々に、素晴らしいワインライフを。

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この記事を書いた人

黒ワイン(くろわいん)
黒ワイン(くろわいん)

日本ソムリエ協会認定ソムリエ。イタリアワインが得意。銀座やみなとみらいなどのレストランでの接客経験や自身のワインライフから、ワインにまつわる人間模様を綴る。

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