「黒ワインのWINE手帖」~人とワインのものがたり~

基本、ワインのお土産はバースデーや就職祝い、気のおけない友人たちとの会食だったり、記念日など、楽しい時間を盛り上げるものとして贈られると思います。
しかし、時にはまったく逆の味わい方がある、そんなエピソードを私の経験から1つお届けしたいと思います。
たぶんあれは僕が東京に来るタイミングだったと思います。僕より先に東京へ移り住んだ母親に、一つ大切な話をしようと思ったことがありました。
おそらく今後の仕事に関しての話でしょう。ソムリエの見習いとして働いていた自分が、地方から東京に出てくる際に、改めて実家で世話になることをお願いしようとしたときのことだと思います。
僕は、大学は出ていますが、卒業後も同級生たちが就職するような大きな会社に入ることもなく、好きな仕事を自由にやっていました。接客に興味があって、お酒が好き、だからソムリエを目指した、などといったふうに、今考えれば後先深く考えずにその道を志したところです。
飲食業というのは上下関係もはっきりしていますし、労働時間も長い。自分で望んだ仕事とは言え、おぼっちゃんのような育ち方をしてきた僕にとっては過酷なものでした。もちろん、どの仕事にも大変な時期はあると思いますが、レストランのそれはときに理不尽さも感じるくらい肉体的にも精神的にも追いつめられるようなこともありました。
それでも、仕事は楽しく、お酒の勉強をするにしたがって新しい世界が広がっていくことに喜びを覚え、その世界で希望を持って働いていました。そして、紆余曲折があり、東京の星付きレストランに面接に行ったところ、その系列店で働かせていただけることになりました。
さて、銀座の名店で働くことができることが決まったのはいいものの、当時貯金もなく、どうしようと悩みました。母が東京で再婚をして、住んでいたのは知っていたので、まずは母に説明をして、そこに住まわせてもらえないかという話をしようということになりました。
さきほど、大学を出た、と書きましたが、僕はそれなりに学歴のある方だと思います。
母はそんな僕に対して「有名な企業に就職してほしい」という話をよくしていました。
飲食の仕事を低く言うつもりはありませんが、やはり親心として、「飲食は大変だろうし、見返りも少ない。他にもっといい仕事を見つけた方がいいのではないか」と母はずっと思っていたと思います。まだ、私も20代半ばで若かったですし、いくらでも方向修正が効く年齢でしたから、小言のように「まだその仕事をしているの」のようなことを言われたのを覚えています。
そんな母ですから、まさか「ソムリエをやるから住ませてくれ」などと気軽に言えるわけもありません。どうにかして説得する材料を用意しないといけない。
好都合なことに、母は酒飲みでした。高級志向というわけでありませんが、それでも世間一般で美味しいとされるものには目がなく、特に酔うと饒舌にもなり面倒見のいいことを言ってくれるので、「酒を飲みながら話そう」と決めました。
問題は何を持っていくかです。
母は日本酒が好きだということは分かっていましたが、「これからソムリエを志すのだから、ワインの魅力を伝えるのがいいだろう」とまず考えました。
じゃあ何のワインを持っていこうか。これまでイタリアンレストランでずっと働いてきたので、詳しく分かるのはイタリアワイン。でも、イタリアワインというのは実はちょっと面倒くさいんですね。フランスワインほど体系化されておらず、マイナーな銘柄が多いんです。つまり、何を飲んだのかが分かりづらい。せっかくの大事な話に寄り添うワインなのだから、「あのときの…」となったときに、せめて同じ作り手のものではなくても同じ銘柄のものぐらいは用意できるようにしたい。
「ふうむ、どうしよう」と考えのまとまらないまま、僕はワインショップに足を運び、陳列されたワインをずっと眺めながら考え続けていました。
「何かお手伝いができることがございましたらお声がけくださいね」というスタッフに、「あ、大丈夫です、……」と言ったあと、何のひらめきか、自然とこんな言葉が出てきました。
「このお店で一番渋いワインはどれですか」
「渋いワインですか……」とスタッフは動揺していました。それもそうだと思います、「フルーティーなもの」「飲みやすいもの」のようなリクエストこそ多くあれど、わざわざ飲みづらさを表すような「渋さ」を求める客などいないでしょう。
ですが、そのスタッフは「ちょっと待ってくださいね」と、真剣に考えてくれました。
「今、うちにあるもので、一番渋いと言われれば、これですね」
そう言って持ってきてくださったのは、比較的若いヴィンテージのシャトー・ヌフ・デュ・パプ。南フランスの高級ワインです。
暖かい地域のワインらしく、ボリュームある果実感や芳醇な香りを楽しむことができ、とても飲みごたえのある一本なのですが、たしかにリリースされたばかりだとそのポテンシャルが馴染んでおらず、それが渋みとして残っているものがあったりします。
やや荘厳なボトルの形状もしているのも、これから母と対峙しようとしている僕の心境にうまく刺さり、即決でそのワインを持ち帰ることに決めました。
そして母と話すことになった当日。「一緒に飲みたいワインがあるんだ」と言って、そのボトルを取り出しました。慣れた手つきで僕はワインを開け、慎重にグラスに注ぎました。
深いダークチェリーのような色調がワインの濃さを思わせます。「乾杯」と一言、グラスを近づけるとまだ香りはそれほど開いていません。口に含むとそれは想像以上、抜群の渋みと果実味が流れ込んできました。
母はこういう味わいのものはあまり飲んだこともないはずですが、味については何も言わず、僕に注がれるままに二人で色々と話をしながらそのワインを飲み干しました。
一通り自分の考えを話して、東京のレストランに実家から通うことに了承を得たのち、母が僕に聞きました。
「ところで、なんでこのワインを選んだの?」
僕は笑いながら、
「真剣な話をするのに渋くて重いワインがいいと思ったから、ワインショップでそう言って選んでもらった」と伝えると、
「そういうもんかね」と母も軽く笑いながら答えました。
その反応から「あまりこのワインは刺さらなかったかな……」などと思っているうちに、いつしか母は近くのワインショップの常連になっており、定期的に段ボールひと箱のワインを家に配送してもらうくらい、ワインにはまっていくことになりました。
もしかしたらワインなどなくても母は受け容れるつもりだったのかもしれません。それでも、その後ワインフリークになっていった母を見ると、僕の気持ちを伝えるのにお店の人に選んでもらったワインは絶大な効果を発揮したようにも思います。
ネガティブな要素すら魅力に感じることのできるワインというお酒の側面を、ぜひ皆様もこれから感じる機会があれば嬉しく思います。
皆様に、素晴らしいワインライフを。



