「黒ワインのWINE手帖」~人とワインのものがたり~

午前3時の「締めシャン」 | 黒ワインのWINE手帖

午前3時の「締めシャン」 | 黒ワインのWINE手帖

黒ワインと申します。
銀座やみなとみらいなどの、数多くのお客様に愛されたレストランでソムリエとして働いた経験から、ワインにまつわる人間模様をこれまで書いてきました。

この連載では、知識や格付けだけでは語れない、一杯のグラスが彩った人生の機微を綴っていきます。渋谷の喧騒の奥に佇む「THE WINE」のように、日常から一歩離れた、静かで豊かなひとときをお届けできれば幸いです。

2026.03.03

かつて僕が身を置いていたレストラン。そこは、朝早くから日付をまたぐ深夜まで、文字通り心身を削って働き続けるような大変な現場でした。
ソムリエの仕事に華やかなイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実際には体力の限界を試されるような瞬間が多々あります。何十本ものワインボトルを運び、長時間立ちっぱなしで接客をこなし、営業が終われば夜中まで片付けや明日の準備に追われる。私が一番長くお世話になったそのレストランも、まさにそんな職場環境でした。

しかもそのお店には、高い理想を掲げる厳しいオーナーと、接客の隅々にまで一切の妥協を許さない恐ろしい店長がいました。
「なぜそうしたのですか。本当にあなたはそれが一番いいと思ってやったのですか」。
若かった僕は、二人の高い要求に応えられず、毎日のようにお叱りを受け、時には自分自身の至らなさに打ちのめされそうになることもありました。文字通り、お客様からいただく一言の感謝や、ふとした瞬間にこぼれる笑顔を唯一の救いにして、なんとか一日一日を繋いでいく。そんな日々が今でも鮮明に思い出されます。

お店の張り詰めた空気の中に、時折、柔らかな風を運んでくれる人がいました。
オーナーの奥様。普段は経理を担当し、表舞台に出てくることはほとんどなかったのですが、姿を現すとすぐに輪の中心になるような方です。スタッフからは親しみと敬愛を込めて「キミさん」と呼ばれていました。

キミさんは時折、ちょっとした用事で店に寄っては「お疲れ様」と声をかけてくれたり、あるいは客として誰かをお店に呼んでくださったり、また時には少人数でゆっくりと食事を楽しみに来てくれたりすることもありました。理想を追い求め、常に厳しい言葉を口にするオーナーに対し、キミさんはいつも、私たちスタッフに寄り添う優しい言葉を投げかけてくれる存在でした。
「うちのオーナーはね、黒ワイン君のこと、本当はすごく頼りにしているのよ。いつも家で黒ワイン君の話ばかりしてる」
そんな言葉をさらりと、けれどたしかな温かさを持って伝えてくれる。大柄な体格で、いつも満開の笑顔を絶やさないキミさんは、厳しい現場で戦う私たちスタッフ全員にとって、そして何よりオーナー自身にとっても、唯一素直に甘えられる、陽だまりのような存在だったのだと思います。

ある夜のことです。
レストランの営業を終え、私はお店の売上金を届けるために、系列のダイニングバーへと向かいました。扉を開けると、そこには常連客の輪の中心で、誰よりも楽しそうに笑い声を上げているキミさんの姿がありました。
「あ、黒ワイン君じゃない。一緒に飲みましょうよ」
彼女は私を見つけるなり、当たり前のように隣の席を空けてくれました。その一言で、長い労働で強張っていた体の力が、ふっと抜けていくのを感じました。誘われるまま、心地よいアルコールの力を借りて、一日の疲れを溶かしていく。そんな夜が何度か続いたある時、みんながビールやカクテルを十分に楽しみ、夜が終わりを迎えようとする時間帯に、彼女はこう言いました。

「ねぇ、締めシャン飲もうよ」

締めのシャンパーニュ。つまりは「締めシャン」。
シャンパーニュ(シャンパン)と言えば、多くの場合は宴の幕開け、乾杯の瞬間に主役となる飲み物です。おめでたい席であれば、その華やかな抜栓の音とともに、これからの至福の時間を予感させるものです。それを彼女は、多くの大人が心地よく酩酊し、夜が深まりきった午前3時に「開けよう」と言うのです。

「無理しなくていいのよ」と笑いながら、細かな泡が躍るグラスが差し出される。
ひどく酔っていた僕でしたが、その誘いを断ることはありませんでした。二十代の若さゆえの血気盛んさもあったのでしょうが、きっとキミさんの人柄にほだされたのもあると思います。

そこからさらなる夜の始まりさえ予感しながら、午前3時のシャンパーニュを喉に流し込む。もちろん、それはあくまで「締め」のシャンパーニュですから、その一杯を飲み干せばその日は幕を閉じます。けれど、その一杯を飲み終えた後の満足感は、何物にも代えがたいものでした。

今振り返れば、あの「締めシャン」という飲み方は、キミさんの生き様そのものだったのではないか、と感じることがあります。自分自身が楽しむことはもちろん、その場にいる全員に、最後の最後まで笑顔でいてほしい。一日を最高の形で締めくくり、明日への活力にしてほしい。彼女の振る舞いには、そんな深いおもてなしの心が宿っていたのではないでしょうか。

私が働いていたそのレストランも、かつて活気にあふれていたダイニングバーも、最近になって閉店したという話を、風の噂で聞きました。時代の流れとともに、あの濃密で享楽に溢れた時間がもう戻ってこないのだと思うと、胸の奥に一抹の寂しさが広がります。

けれど、キミさんの姿は、今でも私の記憶の中で鮮やかに息づいています。きっと今夜も、どこかで誰かとグラスを合わせ、周りの人々を笑顔にしながら、お酒を楽しんでいるように思います。彼女から教わったのは、単なるお酒の知識ではなく、「誰かと共にある時間を、いかに彩り、いかに愛するか」という、最も大切な作法だったように思います。



シャンパーニュ、あるいはスパークリングワインというものは、一度栓を抜けば飲み干さなければならないというイメージがあるかと思います。ですから、日常の贈り物としては少しハードルが高いと感じる方もいるかもしれません。
ですが、もし3、4人といった親しい仲間が集まる機会があれば、ぜひ「泡物」をその日の選択肢に加えてみてください。

何も、一杯目に開ける必要はありません。
会が始まった瞬間から、冷蔵庫の片隅で静かに冷やし始めておく。そして、宴もたけなわ、皆が少し名残惜しさを感じ始めた頃に、「締めシャン飲もうよ」と提案してみる。
始まりの合図ではなく、終わりの余韻を最高のものにするための一杯。そんな選び方も、大人のワインの楽しみ方として、とても「乙」なものではないでしょうか。

僕がキミさんから教わった、「締めシャン」の魔法。皆様の大切な夜を、より豊かで、より記憶に残るものにするための一助となれば幸いです。
皆様に、素晴らしいワインライフを。

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この記事を書いた人

黒ワイン(くろわいん)
黒ワイン(くろわいん)

日本ソムリエ協会認定ソムリエ。イタリアワインが得意。銀座やみなとみらいなどのレストランでの接客経験や自身のワインライフから、ワインにまつわる人間模様を綴る。

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